ひとの価値観で生きるのは苦しい

生きているうちに、好きなことをするべきだ。
こどもの頃に夢見たように、希望に満ちあふれていたように、無邪気になんの気兼ねもなく行動したように。そうするべきだ。

「おとなになる」というのは、こどものこころを失うことではないはず。。

「じぶんは何が好きなのか?」

「じぶんは何をやりたいのか?」

こどもからおとなになる階段を登る中(本当は登ってたのか降ってたのかわからないが)で、わからなくなる。

「そんなことしている場合じゃない」
「他にやることがあるでしょ」
「そんなことやっていても食えないよ」
「つぶしがきく大学の学部は工学部だ」
「成績がいいんだから弁護士か医者になれ」
「高校卒業までとにかく勉強し、いい大学(旧帝大)に入れば人生安泰」

こんな言葉を周りから、シャワーのようにかけつづけられる。
その言葉を発している人たちは、どこか楽しそうに生きていない。苦しそうだ。

「ローンが大変だ」
「家計が苦しい」
「仕事がつまらない」

などなど苦しい話ばかりもでてくる。

わたしの”仕事”のイメージは、いつしか「お金をもらうために苦行をすること」というものになった。
楽しく仕事ができる人たちは、ほんの一握りの選ばれし人の特権だと思っていた。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と家康は言った。

就職して働き始める時も、そんなことを考えていた。就職とは、重荷を背負って遠き道を進み始めるスタート地点。

だれかの価値観で生きる人生。

「もっとできるはずだ。じぶんに限界を作るな」」
「チャレンジしろ。死ぬ気でやれ」
「あいつがんばってるぞ。負けてるぞ。がんばれ」

”ほんとうにそれをやりたいのか?”

”ほんとうにそのようにやりたいのか?”

こころの中で、そんな声がした。気づいていたが無視した。

がんばりつづけた。ひとからみると「まだまだ」といわれるかもしれない。じぶんでは、がんばりつづけた と思う。

ある時、終わりがきた。身体がついていかなくなった。

それから13年経つ。
じぶんの”好き”をとりもどした。じぶんのやることがすべて”好き”になった。

今日、じぶんの周囲でたくさんあった「価値観」をひさびさに耳にした。

「金をたくさん稼ぐことが、大事だ」
「将来は暗い。ただし頑張ればいい生活できる」
「勝ち残るために頑張れ!頑張れ!」

わたしにはそのように聴こえた。

苦しくは無いが、身体がムズムズする違和感。
わたしの他に多くの若い人たちがいた。

この「価値観」は、そのことを話している人の「価値観」だよ。
それは、あなたの価値観かどうかは、あなたしかわからないよ。

あなたの好きなことはなんですか?

いま、わからなくてもいい。やりながら考え続けよう。それはたぶん身近にある。遠くではなく近くに。