今ここを生きる

キャリア教育塾OGI塾代表の荻原嘉一郎です。

あなたは、”今”を生きているでしょうか?

過去や未来に生きてないでしょうか?

演劇の先生にそれを言われた時、意味がわからなかった。

 

少し、「こんなことなのかな」と思ったのは、「真っ暗闇にしてお風呂に入る」ことをした時のこと。
※これが、授業の宿題

何も見えない状態(真っ暗闇でも少し見えてしまうから、目をつぶって)で、衣類を脱ぎ、風呂に入る。

手探りで色々とやるうちに、気づいた。

 

一つ一つの作業しかできない。目が使えるときは、同時に複数のことを処理してた。

 

目を使わないと、例えば、頭を洗うときでも、

1)シャンプーを手探りで探す

2)手に取る

3)シャンプーを出す

4)頭につけてゴシゴシ洗う

これを進める中で、特に手先、手のひらの感覚が鋭くなる。集中している。

余計な情報がなくて、頭を洗うことに集中していることに気づいた。

目が使えるときは、目から入る情報に紛れて、手先、手のひらの感覚が鈍くなっていた。

 

そして、目を使わず洗っているときは、洗うことに集中して、他のことを考えてなかった。

目が使えるときは、「昼間の打ち合わせの時に、変なこと言っちゃたかな」と過去のことを考えたり、

「明日の授業の段取りは、こうするか」などをつい考えてしまっていたような気がする。

 

そして、目を使わない時は、集中していて、とても濃密な時間をすごせていた と思う。

 

ああ、これが、「今、ここを生きる」ということなのかな と感じた。

 

コンピュータの世界で、「プリフェッチ」という言葉があることを思い出した。

まだ命令が来なくても、将来的に必要となりそうなデータをデータベースから勝手に呼び出して

メモリに格納しておくこと。

処理効率を良くするための機能である。

気づかぬうちに、現代は、効率をどこまでも高めようとし、プリフェッチをしてしまっているのではない

だろうかなどと考えてしまった。

 

視覚機能を一旦オフすることで、周囲のたくさんの情報を取得できなくなり、効率は低くなるが、気持ち的に

はすごく落ち着く。

効率を重視しすぎて、「今ここを生きない」と、精神的にはとても疲弊する気がする。

「今ここを生きていない」人は、本当に生きていると言えるのだろうか?

 

「今を生きること」を体験し、意味を考える。これを是非、授業に取りいれたい!

※ダイアログ・イン・ザ・ダーク に何人かで参加するのもいいかな

 

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