対話の先に理解・納得がある

「何度も言ってるのにまだわからないのか?どうしてできないんだ?」

これと同様の言葉を今まで、何度かけられたことだろう。そして、何度かけたことだろう。
そのことを思い出すと、暗い気持ちになる。

学校、会社、家。。。

その言葉をかけられるたび、できないのは、自分の能力が足りないからと感じ、なんとか相手に合わせなきゃと考えたものだった。

新卒で会社に入って、最初の仕事が、会議での議事録取り。「ちゃんと書けていない」 と先輩・上司から言われた。書いたものが、「真っ赤」になって返ってくる。誤字、脱字、主語〜述語の関係が不明確など基本的なところから始まり、結論、理由、根拠と書くというようなことを、そこで教わる。

「社会に出て使う文章の書き方」は、それまで学んだことがなかった。

書いた文書を見せるのが嫌になったが、出さないわけにもいかない。文書の書き直しだけのために、休日出社したこともある。文章の書き直しで休日出社。しかも、何度も書き直しでOKが出ない。彼女から電話がかかってくるが、帰ることができない。あまりにも情けなくて、涙が出てきたことを今でも思い出す。

今思うに、これにつきあった先輩・上司には本当に感謝しかない。

「何度も言われることができない」のは、2つ理由があった。
①「自分がちゃんと理解していない」=「とりあえず、はい と返事してその場を過ごす」
②「自分が納得してなかった」 =「そうはいっても、この書き方もいいんじゃないの と思いつつ「はい」と返事する」

①は、すぐに見破られた。本当にわかってるんだったら説明してみて と言われて答えられなかった。すぐに見破られたことで、理解はすすんだ。

ところが、②については中々解決できずにいた。先輩に自分の意見を言えずにいたからだ。

ある時、聞かれた。
「荻原はこの俺の意見についてどう考えるの?」

率直に話をするのは怖かったが、思っていることを話してみた。

「なるほど。そう思ってたのか。じゃあ、この場合はどう思う。どっちがいいと思う」
と議論を展開してくれた。

結果、先輩の意見の方がいいと納得した。

その後、先輩の言ったことが忘れられない。
「「自分の意見を持つこと」が一番大事。「自分がどうしたいのか?」それを考え、相手に伝えなさい」

そこからしか、意味あるコミュニケーションは生まれてこないのだ。実感した。
その時から、その先輩と腹を割って話をできるようになった気がする。

自分の意見をいう。理由を言う。相手の意見を聴く。理由を聴く。
このような対話をすることを経ずして、お互いの「理解」「納得」はありえない と考えるようになった。