日経新聞特集「キセキの高校」を読んで感じたこと
今週月曜から、日経新聞に「キセキの高校」という連載が行われている。
偏差値40の都立大山高校から上智大学に入った学生のことが書いてあった。
どんなことがあったのか?
とても興味を持った。
きっかけになったのは、2016年から始まった「哲学対話」という取り組みと書いてあった。
哲学対話ってなんだろう?
アメリカの高校で行われている、「子どものための哲学(Philosophy for Children)」と呼ばれる教育プログラムの1つが、元だそうだ。子どもたちが共に問い、話し合うプロセスを通じ、探究心や考える力を育てることを目的としている。
梶谷さんは、これを見た時に、衝撃を受けたそうだ。自由に自分の考えを話し、聞くことがそこでは行われていたからだ。
日本では、その場の暗黙のルールにしばられて、自由にものがいえるところが非常に少ない と梶谷さんは語る。
確かに、大人になってどこかの組織に入ると、その場の空気や互いの配慮に縛られ、自由に発言することは難しいと思う。
大山高校で行われている「哲学対話」では、8つのルールがある。
1)何を言ってもいい
2)否定的な態度はとらない
3)話を聞いているだけでもOK
4)質問しあう
5)本の知識や話ではなく自分の経験を話す。
6)まとめない
7)意見が変わってもOK
8)分からなくなってもよい
うーむ。
自由に話せるし、一方で相手の話すことも尊重する精神がそこにはある。
お互いが、対等な関係で、互いに考えを深めて新たな世界へ進もうという積極的な精神の存在も感じる。
そして、究極は、7)や8)だ。
論理的でなくなってもよし。失敗を恐れなくていいんだよ という優しさも感じる。
これはとてもいい。
哲学対話を見て、校長がまず感じたのは、「ここで話しているのは、本当にうちの生徒なのか?」ということだったらしい。
きちんと、自分の言葉で意見を話している姿にびっくりしたのだった。
偏差値の40の学校に来ている生徒だから、こんなものだ という固定観念があったのかもしれない。
自由な対話を行うことには、こんな力があるのだ。
その人が本来持っている可能性を開く。
その話を読んで、あることを思い出す。
私が以前参加していた、「ハタモク(働く目的を社会に出る前の学生と社会人が対話する活動)」で、行った大学で出会った大学生のことだ。
その大学も偏差値で言うと、いわゆるFランクと言われる学校だった。
春に行った時には、対話の場でも自分からはあまり話をしなかった学生がいた。
質問には最低限の答えはする。一方的に質問をするわけではなく、「働く目的」や「大事に感じる価値観」などについて、共に考え、自分の言葉で答える。
学生と社会人にのどちらが上でも下でもなく、「ヨコの関係」で接する場。
「哲学対話」にとてもよく似ていた。
秋に参加した時に、その学生とあったが、「別人ではないか!」と思うぐらい変わっていた。
自信をもって、自分の言葉で堂々と語っている姿を見たからだ。
よいきっかけがあることで、人間はその可能性を開花させる と思った瞬間だった。
(彼と話した時に、春の対話がきっかけだったといっていた)
また、私が現在多くの仕事をしているAO入試塾でも、3ヶ月から6ヶ月の対話の中で、たくましく変化、可能性を開花させる学生に日々出会う。
その瞬間に立ち会えることは、魂が震えるくらいの喜びを感じる。まあ、だからそこの仕事をしているわけである。
最近思うのは、若者の可能性を開花させるのももちろん大事。
しかし、大人、特に私の年代である50代にこそ、今、この「哲学対話」は必要ではないのだろうか?
毎日のすべてを自由に自分の言いたいことを言える人はそれほどいないとは思う。
また、いつも言えなくてもいいとも思う。
ただ、家にいても、会社にいても、自分の考えを話せない、自分の考えを聞いてもらえない、質問してもらえない、そんな状態では、その人の精神は若さを失い、腐ってきてしまうのだはないだろうか。
そして、50代がそうなると、それは下の年代にも悪影響を与えるのだ。
若者については、実は今私はさほど心配していない。
哲学対話に限らず、自分の頭で自由に考え発言できる若者は増えてきていると感じる。そして、そうなった若者は、その下の年代に良い影響をあたえる。そういった好循環ができはじめているのではないか。
それよりも、いまの大人の方が心配である。
私自身も含め、50代が変わる というよりは、「自分自身を取り戻す」ために、「50代が自由な対話」をできる場を作っていきたい。