進路指導という言葉に対する違和感
進路指導という言葉が好きではない。
好きではないが、時々使ってしまう。自分のやることを簡単に説明したい時、
時々だが使ってしまっていた。
それが嫌だ。もうやめよう。
いったい、なにを指導するのだろうか?
その人の行く道を「指し示し導く」
指導するものとされるものの間には、「上下関係」が存在する。
私は従順な人間と思われている。ずっとそうである。
実は、かなりの頑固ものである。
そして、「自分の内面」に人の侵入を容易に許さない。許したくない。
自分の内面にある自分だけの城を、守り続けたいのだ。そういう意味である。
時に頑迷といわれることもある。それがいつもよいと思っているわけではない。
ただ、そういった「城」を持っていない人を私は信用しない。
他人の「城」に土足ではいるような真似は絶対にしたくない。
「指導」という言葉には、城に土足で入る匂いを感じるのだ。
興味をかきたててくれる。
静かに話を聞いてくれる。
時に希望するとちょっとしたアドバイスをくれる
背中をおしてくれる
その考え方でいいといってくれる
今のままでもいいといってくれる
やりたいことの助けとなることをさりげなくやってくれる(こちらは気がつかないこともある)
「指導」の代わりに、そんなことができればいいと思っている。
私が思い出す先生がいる。
中学時代の理科の先生。最初会ったときは大学院生でもあった。まだ20代後半。
私は当時、歴史、宇宙、ロケット、コンピューターなどに興味があった。
私はあまり話さない子供だったが、その先生とは結構話した(と思う)
もの静かな方で、静かに話を聞いてくれる。
私は、かなり間違ったことも話していたと思うが、決してそれをだめだとか、間違ってるとか、すぐに否定されたことはない(と思う)
さりげなく、よんだ方がよい本を紹介してくれたり、博物館などに誘ってくれたりした。
理科の好きな同級生と議論しているのを(今となるとかなり内容が怪しいものもある)ニコニコしながら聞いていた姿を思い出す。
コンピューターも好きだった。マイコンを自作したりしていた。
そんなことに気づいて、その先生はさりげにOBの工学部の学生とつないでくれた。
私の前職はシステムエンジニア。
理工系の大学にすすんだり、コンピューターの仕事をしているのは、この先生の影響なんだろう。
こういうのは「進路指導」とは呼ばないだろう。ただ、今でも先生には「ありがとう」といいたい。
私が、人に向き合うときの姿勢は、この先生の姿勢を真似てるんだろう。
あれから40年以上経つが、あの時代の先生の私に向かう姿勢が、私の人生に大きな影響を与えてくれた。
私も先生のような人になりたいとあらためて思う。